◇女の情念の世界


こんばんは。
今日はだらけております。やらないといけないことは色々あるのに力が出ません。
そんな日ってありますよね。

だらっとしながら、録画してあった「マツコの知らない世界」を見ていました。
マツコさんとIKKOさんが、昭和美女について熱く語る新春スペシャルの回です。リアルタイムでも見たのですけど、とても面白かったので、もう一回見ました。


昭和の美女たちのメイクや髪型について語るところも見応えがありましたが、それよりも、後半に宮尾登美子文学が紹介されていたのが個人的には嬉しかった。

正確には、宮尾登美子原作の五社英雄作品ですけどね。「鬼龍院花子の生涯」なんて、原作の主人公は地味〜な女性で、映画のような美女設定じゃないですし。






だから映画を見てから原作を読むと、がっかりするかもしれません。
あれ?夏目雅子はどこ行った?
って。原作の主人公は最後まで大人しくて、「おまんら、許さんぜよ」とか言いませんし。

鬼龍院花子の生涯
宮尾登美子
文藝春秋
2013-09-06



本と映画ではかなり世界観が違うので、宮尾登美子文学と五社英雄作品の同一視はできません。それでも、こうして近年忘れ去られようとしている宮尾登美子さんの名前と作品が紹介されたことは、素直に喜びたい。

宮尾登美子の世界、私も大大大好きなんですよ。

櫂 (新潮文庫)
登美子, 宮尾
新潮社
1996-10-30



宮尾さんの紡ぐ言葉は読むのに骨が折れるんですけど、読み進めるうちにグイグイと引き込まれてしまいます。

土佐の高知が生んだ誇るべき大文豪!…の、はずなのに…。
子供が通った高知の高校の図書館の棚に、宮尾登美子作品が1冊も無いのを目にした時は寂しくなりました。
図書館だけじゃありません。地元書店の棚にもほとんど無いのです。

地元作家なのに、地元作家なのに、地元作家なのにー!


確かにね、宮尾作品の世界観って、今の常識では考えられない。
人身売買の犠牲になった娘たちが、現代であれば虐待認定されること間違いなしの辛い生活に耐え忍ぶ話なので、今時ウケる内容ではありません。ポリコレ的にも「正しくない」です。

なんたって、鬼滅の刃の「遊郭編」が問題視されてしまうような世の中ですから。


陽暉楼 (中公文庫 A 108-4)
宮尾 登美子
中央公論新社
1979-09-10



岩伍覚え書 (集英社文庫)
宮尾 登美子
集英社
2016-02-19



女に生まれたからといって、なぜにここまでの不条理を押し付けられにゃならんのだ!っていう苦界の物語ですよ。しかも、苦難に耐えたからといって、ハッピーエンドにもならない理不尽さ。
我慢して、我慢して、我慢した先に、全っ然しあわせが待ってない。なんなら失意の中で死んじゃったりする。頑張ったのに報われない。

神様はね、居ないんです。居るかもしれないけど、見てないの。
いや、見てんのかもしれないけど、振り向いてくれないの。

それが人生。そんな人生。それが宮尾登美子の女たち。


でもね、それでもね。女たちは耐えるばかりではないのです。抑圧を受ければ受けるほど、そこに輝く女ならではの意地と、強さ、逞しさ、図太さがあるんです。そうしたものが光って見えるんです。

マツコさんが「陽暉楼はキャッチコピーがいいのよね。『女は競ってこそ華、負けて落ちれば泥』ってね」と仰られましたが、原作にそんな言葉はありません。映画オリジナルなのですけど、確かにいいコピーですよね。

女同士が競い合い、泥に落ちて、冷たい雨に追い打ちをかけられても、泥の中で咲く女の情念が美しい。

冷雨、残菊に容赦なし。あぁ、泣ける...。





ゲストとして登場した池上季実子さんは、確かに儚げで胸を打つ美しさです。けれど、私がこの映画の中で好きなのは、やっぱり浅野温子さん。
生命力がみなぎっていて、まばゆいばかりの瑞々しさなのですよ。エイジズムがなんだ!若い女は、その若さゆえに美しい!


そして緒方拳さんが、もう「くぅ〜っ!」って、唸りたくなるくらいにカッコイイ。
「有害な男らしさ」が満載なのですが、たまらなくセクシーです。
「バケツ持ってきましょうか?」ってくらい、男の色気がドボドボしたたってます。
この手の男らしさって、本当に有害なんですかね?


こういうね、ポリコレ的には隅から隅までアウトな作品を、「私たちの魂よね!」「大好き〜」だと、堂々と言えるのって羨ましいなと思っちゃいました。マツコさんと IKKOさんだから許される。

もしもマジョリティの男性があんな風に美女について語り合ったとしたら、四方八方から棒を持った人が襲ってきそう。


だって、「多様性の時代」ですもの。

「痩せている女性が魅力的だとか、シンメトリーな顔が美しいというのはステレオタイプ。男性目線で考えられた女性の美は差別。画一的な美はコマーシャリズムの刷り込みだと気付こう!」

とか、最近は言うじゃないですか。
それに対して、「うるせぇよ!」なんて、心の声でしか言えないじゃないですか。


段ボールやトイレの便器に意味付けをして、「これはアートである」とか言ってた時代のコンセプチュアルアートかなって思いますよね。
そういう私自身も学生時代はコンセプチュアルアートに夢中になって、「何言ってんだオメー」的な屁理屈をこねくり回してた方なので、ちょっと懐かしさを覚えるんですけども。


だけど、理性で美の基準を決めるのは、やっぱり無理がある。
美は理性に訴えるものではなくて、理性のタガを打ち破って胸を貫き、心を震わすものだから。
昭和の美女たち、本当に綺麗ですよね。
女が女として生きていた時代の女が煮詰まってる感じで。(←褒めてる)


そうした時代の女の美しさと生き様を、トランス女性でないと肯定的に語れなくなってしまっただなんて、不思議な世の中です。

番組では「昭和の美女が令和の若者に大人気」と話されていましたが、そうなのでしょうか。
もしそれが本当なら、今は多様性が重んじられている美の基準も、また変わるのかもしれませんね。
ついでに、宮尾登美子作品の価値も見直されると嬉しいです。