◇結末を見届ける


こんにちは。
最近、早く寄稿記事を書かなくちゃなと思うとブログが書きたくなってくるという症状に悩まされております。
まあ、いいですよね。寄稿する原稿は期日までにどうにか仕上げればいいんだもの。


昨夜は、私と同じ子宮系ウォッチャーの皆様が楽しくお喋りしていらっしゃるスペースに、リスナーとしてちょこっと参加しておりました。途中でどうにも眠たくなって退出しましたが、楽しゅうございました。
以前、昨夜とは違うグループのスペースにお邪魔した際にも思ったのですが、ウォッチャーの皆さんの中には、宗教やスピリチュアルについて深い知識をお持ちの方々が少なくないのですね。

お話を聞かせていただき勉強になるなと思う一方で、ウォッチャーにはおのおの別の興味や理由があって、観察をしているんだなとということを考えていました。


自分に近しい人(パートナーや家族)が子宮系にハマったので許せないという人もいれば、自分自身が子宮系にハマってしまい、多くのお金と友人を失ってしまった後悔から観察者になる人もいる。

あるいは、伝統的宗教に従事していたり、医療関係者だったり、スピリチュアリズムが関わる仕事をしているからこそ、間違った医療情報を発信し、都合よく神々を利用し、勝手な占いをしたり霊能者を自称する似非(えせ)スピリチュアルが許せない、という方々もいらっしゃる。

人それぞれなのですね。


私が子宮系に注目するきっかけとなったのは、学生時代からの友人が子宮委員長はるや藤本さきこの信者になってしまったからです。
最初は、「おいっ!何やってんだ、早く目覚めろ!」と思いブログを書いていましたが、もうかれこれ5年以上も経ちますからね。
この間に考えが変化して、現在はもう友人を目覚めさせたいという気持ちは全くありません。


「さやりんご」となった「子宮委員長はる」が、どれほどの矛盾と破綻を見せようとも、彼女は相変わらず教祖たちを支持しています。
そうこうするうち、彼女は50代になろうとしています。もう色んなことが手遅れすぎる。

私の友人が現実に目覚める望みは、残念ですがもう無いでしょう。むしろ夢みていられる世界から無理矢理ひきずり出してしまったら、命を絶ってしまうかもしれない。
だからそっとしておきます。


スピリチュアルの世界に引きこもっている彼女の生活は老いた両親によって支えられていますが、頼みの綱である親も80代になろうとしています。
これもまた一つの5080問題だと言えるでしょうね。

私はもう、ただ成り行きを見届けたいだけ。


若さが輝いていた頃、友人は才気煥発(さいきかんぱつ)な女の子でした。
だからこそ、両親もその才能を信じて、娘の可能性に賭け、娘の言うなりに多額の教育費をかけて育てたのでしょう。

教育熱心な親の期待に応えて、彼女は勉学に励む一方でバレエにもうちこみ、ロシアにバレエ留学などもしています。教育費を捻出するため彼女の両親は慎ましい生活を続けたようですが、親からお金をかけてもらった結果、贅沢を好むようになった彼女の趣味は乗馬と芸術鑑賞。


娘のために犠牲になった親心は、私も自分が親になったのでよく分かります。
幼少期から他人より優れた資質を見せる娘に、「見ていて。私はいつかきっと大物になるから」と力強く言われれば、娘の未来に夢を託すでしょう。特に母親は。

けれどその期待は裏切られ、お金を無心し続けた娘は結局何者にもならなかったばかりか、才能がないのに凡庸さを頑なに拒否するため、普通に生きることさえできない大人になってしまった。
深い失望に、ご両親はどう折り合いをつけたのでしょう。


私は不思議なのです。
親に犠牲を強いて30歳近くまで教育を受け、贅沢を知り、パリでは日常的に芸術に触れる生活をしていたはずなのに、今の彼女は恐ろしく醜悪なものを美しいと紹介し、まがい物を本物だと言い張っている。

恵まれた環境で高い教育を受けたはずの友人の審美眼の無さは目を見張るほどであり、混乱を覚えるほどに不可思議で、私はその不思議さの答えがどうしても知りたい。
だから彼女を見続けるのです。

私にとってはその延長線上に、子宮系教祖たちの観察がある。


一人の女性の人生が、どのようにダメになっていくのか、どう取り返しがつかなくなるのか、不幸はどんな風に加速するのか。
彼女の信じたカルトは、どのように破綻するのか、いつ終焉を迎えるのか、教祖たちにはどんな罰が待ち受けるのか。

それを最後まで見届けたい。


私は宮尾登美子さんや有吉佐和子さん、あるいはエミール・ゾラの小説を読むように、ネットを通じて女性の人生を読んでいるのです。


陽暉楼 (中公文庫 A 108-4)
宮尾 登美子
中央公論新社
1979-09-10



鬼怒川 (新潮文庫)
有吉 佐和子
新潮社
1980-05-25



居酒屋 (新潮文庫)
ゾラ
新潮社
1971-01-01



リアルタイムで発信される女たちの人生の転落劇。
リアルは人間の想像力を超えてくるので驚かされます。


教祖や信者たちがどう取り繕おうと、彼女たちの人生には綻びが見え隠れし、不幸が匂う。

さやりんごは、流産したてだと本人は言い張っているのに、夫が家を訪ねてくる様子は一切なく、労らわれることもなく、買い物も食事もひとりぼっちです。
島の居心地は悪くなる一方ですが、夫からは守ってもらえず、今後はいきつけの喫茶店や居酒屋へ行くのもやめるそうですよ。また居場所を失いましたね。

男嶽神社の宮司の妻であるはずなのに、夏祭りには招かれず、寄進者のリストにも名前を載せてもらえない。

参考記事(リンク先は魚拓)→他人は変えられない

参考記事(リンク先は魚拓)→愛が届いた


宮司の下心はもうとっくに彼女から離れています。そりゃそうですよね。
自分で子育てする気は無いくせに、二言目には「妊娠したい」「赤ちゃん欲しい」ってうるさい女なんて、うっかり抱けやしませんよ。


本当は、夫がとっくの前に自分の元から去っている。
本当は、住み心地がこの上なく悪い島から出て行きたい。

けれど壱岐島の名も宮司の名(姓)も商売に利用している手前、夫も家も手放せない。どうにもならない。
誰にも本音は言えない。人前では泣けない。


犬だって本当は可愛くない。奇跡のナマコなんてとっくに死んでる。
ガーデニングも畑も、面倒くさくてやりたくないし興味も失せてる。

自分に協力してくれる島の人はもう居ないから、これ以上不動産も増やせない。工事もしてもらえない。
壱岐島の農家さんたちが作った米や果物、野菜も通販できない。

がんじがらめで八方塞がり。ひとりぼっち。


そんな状態で、これからどうするの?


さやりんごは今後、ゆっくりと気が狂っていくのでしょう。
それをじっくりと観察し、カルト教祖になった風俗嬢の物語の結末を、私は最後までしっかり見届けたいと思います。