◇和華子さんに捧ぐ


おはようございます。
年末から寒かったですが、今日もめちゃくちゃ寒いです。
ですが、コロナ対策で手洗いうがい、マスク着用を徹底しているせいか、どんなに寒くても今年の冬は家族の誰も風邪を引いておらず、体調を崩すことが一切ありません。
マスク着用の効果ってすごいですね。とはいえ、ずっとこんな生活を続けるのは嫌ですけど…。


さて、私のSNSアカウントをフォローくださっている方は既にお読み頂いていると思いますが、元日に寄稿記事が公開されました。

こちらから→漁師町幸せな結婚と人生は「人間万事塞翁が馬」〜置かれた場所で咲きなさい〜


早く紹介記事を書かなくちゃと気持ちばかり焦っていましたが、忙しさにかまけて「明日こそ、明日こそ…」と思っている間に、もう10日以上の日が過ぎてしまいました。(´;ω;`)

隙間時間にちゃちゃっと書いてしまうことはできたのでしょうが、和華子さんのことについては、やっつけで書きたくなかったんですよね。


記事をお読みいただけば分かる通り、和華子さんは素敵な女性でした。
もう本当に、和やかで、華やかで、「和華子」という名前がぴったりなのです。

なので、今までは全ての寄稿記事で登場人物には仮名を当てていましたが、和華子さんだけは本名を使わせていただきました。和華子さんは和華子さんであり、他の名前を当てはめることはできないのです。


私には祖母から譲り受けた着物が沢山あるのですが、その中に一枚、結城紬がありまして、高級品ではあるものの保存状態が悪く、色が変色して傷んでいました。
お店に出して、お金をかけて直してもらうのも何だかなと思い、どうせ傷んだ着物なら変になっても構わないから、自分で縫い直してみようと思い立ったのが、裁縫は苦手なのに和裁教室に通うことになったきっかけです。

ネットで和裁を教えてくれる教室を探して、はりまや橋近くの小さなお教室に問い合わせをしました。
私は着物が一枚縫えればいいのであって、ガチで和裁の技術を仕込んでもらいたいわけではありません。
そのお教室のゆるさは丁度良かったのですが、「ここにしよう」と思った決め手は和華子さんの存在でした。

お教室には多いと5〜6人の生徒が着物を広げているのですが、私が体験に行った時に居たのは和華子さんお一人でした。
和華子さんは私を見て、「まあ、お若い人が来てくれたら、こちらの気分も華やぐわねぇ。ようこそ」と言って歓迎してくれてました。そして、先生と二人でお喋りを始めました。

冬でしたので、和華子さんは格子模様のカジュアルなお着物と、お揃いの羽織をお召しになり、きちんとお化粧もされていてお洒落でした。暖かい季節には洋服、寒い季節には和服と決めてあるのだそうです。


「着物はね、帯を巻くろう。そうすると背中が曲がらんがよ。私はいっとき、やけに背中が痛かったがねぇ。あれは背骨が曲がりよったにかわらん。けんど、毎日着物を着て帯を締めちょったら、いつの間にやら痛みも治まって、背骨も曲がらずに済んだがよ。
歳を取って筋力が弱ったら、着物はかえって楽なくらいで。背筋を真っ直ぐにしようと力を入れざっても、帯に体を預けちょいたらええがやき。
私は歳を取るのはちっともかまんけんど、背中の曲がったお婆さんになるがは絶対に嫌」

と仰っておられました。美意識の高い方ですよね。
響きがきついと言われる土佐弁ですが、穏やかな口調の和華子さんが話すと、土佐弁も柔らかくてチャーミングでした。
なので、記事中の会話文も方言で書きました。


その日は1時間ほど、ただただ先生と和華子さんのお喋りに耳を傾けて帰ったのですが、その時間が楽しかったので通うことに決めたのです。

ですから、教室に和華子さんの姿が見えなくなると、楽しみがなくなってしまいました。訃報を聞いて二度と会えないと分かった時に気づいたのですが、私は和華子さんに会いたくて毎週教室に顔を出していたのでした。

和華子さんを中心にして、人生の先輩方の語る昔話が興味深くて楽しかったのです。
皆さんのお喋りを聞く方に一生懸命で、私が縫った着物の縫い目はガタガタです。それでもどうにか着れるように縫い上がったのは、要所要所で先生が手を入れてくださったおかげ。

祖母の着物の縫い直しは仕上がってしまったので、次は実家にあった男物の紬の単物に目をつけました。それで夫に単の着物を仕立てることにしたのですが、縫っている途中で和華子さんと会えなくなってしまったので、縫い上がるのと同時に教室をやめました。


先生も仲良しだった和華子さんが居なくなって、張り合いをなくしたように見えました。

「ここに通ってくるお婆さんたちは、ここが無くなったら出かける場所が無くなってしまうでしょ。だから私も頑張って続けてきたけど、もう目も見えなくなってきたしねぇ。80歳になったら辞めたい」

と、言っておられましたが、どうされたかな。
先生は東京で長くお暮らしだったので、土佐弁はあまり喋らず標準語が多かったですね。


先生は漁師町の生まれでしたが、農家だったそうです。
農家というのは一年中働き詰めですから、先生は子供ながらに「漁師の家に嫁に行くのも嫌だし、農業を継ぐのも絶対に嫌。手に職をつけよう」と決意していたそうです。

年頃になると高知市内に出てきて、当時まだ女子校だった丸の内高校で家政科の先生として少し働いたそうですが、東京から高知に来た着物のファッションショーを見に行ったことが人生を変えました。
初めて見るデザインの華やかさと着こなしの新しさに驚嘆したそうです。


「そして、こんなところへいてはダメだ。私は東京へ行く」と親を説き伏せ、親に山を売らせて上京し、東京の有名な服飾専門学校に通ったとのことでした。
土佐の女性らしく気の強さで世を渡り、「男の世話などまっぴらごめん」と働き続けて独身を貫いてきたけれど、いよいよ歳をとったので、甥の世話になりに戻ってきたとのことでした。

甥御さんには故郷の町の海辺に一軒家を用意してもらったそうですが、そこから高知市内の教室に通うのは遠すぎるので、教室の近くに小さなアパートを借りて、週の半分以上はそこでお暮らしでした。

先生のご実家も、漁師町の農家といえど土地持ちで富裕だったようです。でなければ、あの時代に女の子が東京へ出してもらえませんよね。
だから、故郷は同町ではないけれど、漁師町の富裕な家庭に育った者同士、先生と和華子さんは話が合うようでした。


先生はもちろん服飾のプロでしたが、和華子さんもお若い頃(といっても恐らく、子育てが終わった50代の頃)はブティック経営をされていたそうです。よほどお洒落がお好きだったのですね。


最後に和華子さんに会った日の服装を、今でも覚えています。
あれは初夏の頃だったでしょうか。

白地にブルーの花柄のワンピースに、目が覚めるような青いロングカーディガンを羽織っておられ、足元はアクリル樹脂のヒール部分に花が閉じ込められている華やかなサンダルでした。

爽やかで美しい装いに、先生から

「まぁ、和華ちゃん、どこへお出かけ?」

と聞かれると、

「神様に会いに行くがよ。神様の前では、いつも一番えい格好をしちょかないかんきね」

と笑っておられました。これから教会へ行くという和華子さんと、教室の玄関でお別れしたのが最後になりました。


ご主人のお仕事を手伝ってのことと思いますが、お若い頃には少しばかり政治活動もしておられたので、和華子さんの訃報は高知新聞で小さな記事になりました。
その記事が載った新聞を、私はしばらくの間、和華子さんを忍んで手元に置いておきました。


私は和裁教室へ通っていた頃、家に帰ると「今日は和華子さんと先生がこんな話をしていた」と夫に報告していたので、話の内容を面白がってくれた夫が、「ブログに書けばいいのに」と勧めてくれていましたが、どう書けば和華子さんの素敵さや話の面白さが伝わるのか分からなくて、ずっと書けずにいました。

けれど、こうして寄稿記事を書かせてもらっていることが体験を文章として綴る練習となり、ずっと書きたかったことをようやく文字にできました。

今回の記事は今まで寄稿した中で一番文字数が多く、長くなってしまいましたが、これでも削りに削って短くしているのです。


和華子さんとのお別れは突然すぎて寂しかったけれど、今回の記事は感想を寄せてくださる方がいつもよりずっと多かったので、こうして書くことで、和華子さんの言葉を多くの人に伝えられて良かったなと思います。


置かれた場所で咲きなさい
渡辺 和子
幻冬舎
2012-04-25