◇息子の成人に寄せて


成人の日ですね。皆様は3連休いかがお過ごしでしたでしょうか。
うちも成人した息子が昨日高知で成人式に参加しました。住民票はもう東京へ移していますが、進学のため高知県外へと散り散りになっている中高の同級生たちと待ち合わせて出席し、楽しく過ごしたようです。

私は私で今住んでいる場所での仕事や生活があるので、息子の世話は実家に頼み写真だけを貰いましたが、友人たちと満面の笑顔で映る息子の写真を見て、一仕事終えたような感慨にふけりました。

私の人生には起伏があり、子供達にも多感な時期に落ち着いて生活をさせてあげられず振り回してしまったけれど、こうして仲間たちと笑顔で成人式に参加できるほどの楽しい青春を息子が過ごせて良かったなとしみじみと思うのです。


実を言うと、今年は正月早々から息子がしでかしたことで気を揉んで過ごしました。
息子はとんでもなく不注意な癖に行動力はあるので、子供の頃から事故によくあい、怪我が多く、何かとトラブルも絶えない。
「やれやれ、こんなんで大丈夫なのか」と溜息ついていましたが、そんな時いつも頭に浮かぶのは、


「心配したちしょうがない。親があれこれ考えたちそうはならん。子供はねぇ、思うたようには育たんぞね」


という、和華子さんの言葉と魅力的な笑顔です。
和華子さんは、私が一時期和裁教室に通っていた時に知り合った老齢のご婦人でした。祖母から譲り受けた着物を自分で直してみようと教室に見学に赴(おもむ)いた時、その日たまたまいらしたのが和華子さんだったのです。


「私はね、春と夏は洋服、秋と冬は毎日着物で過ごすのよ」

と仰った和華子さんがその日にお召しだったのは、長着と羽織がお揃いの格子の着物だったかしら。
当時の年齢がおいくつだったのかははっきり覚えていませんが、恐らく70代半ば頃だったと思います。

和華子さんは人当たりがよく、富裕なお暮らしぶりは身なりからも窺(うかが)えましたが、とてもお洒落で、話が面白くて、私は結局裁縫(さいほう)は苦手なままでしたが、和華子さんと先生のお喋りを聞いていたくて教室に通ったのでした。


話好きで、針を動かしながらずっとお喋りしている和華子さんの話はどれも興味深くて何を聞いても面白かった。
高知の漁村に生まれ、その当時田舎に生まれついた女性としては珍しかったであろう土佐校(高知県内では1位の私立進学校、共学であるにも関わらず昔は男子重視で女子の入学者が極端に少なかった)に進学し、その後神戸の大学の英文科にも進んでいらっしゃる。頭が良くてユーモアに溢れた女性でした。

名は体を表すと言うけれど、和やかでいて華やか、あまりに名前がぴったりなので感心したものでした。


和華子さんの話はいつも書きたいと思うのですが、今はまだ私に腕が無くて書けません。和華子さんのチャーミングさ、お話の含蓄の深さが今の私では表現できず、書きかけては挫折しています。


私が息子の大学受験についてあれこれ心配していた頃に、和華子さんが笑いながら仰ったのが


「子供は思うたようには育たんぞね」


という言葉です。
私も心配したり、喜んだり、しんどかったり腹を立てたりしながら20年にわたり子育てしてきて、「本当に和華子さんの言う通りだな」と思うのです。
そもそも、私自身が親の思う通りには育っていません。

私の友人たちにしてもそうです。幼少期はもちろん、まだ20歳やそこらの時点では、その先の人生がどうなるのか全く分かっていなかった。
お嬢様育ちのワガママで頼りなかった友人が、今では部下を従えてバリバリのキャリアウーマンになっている例もあれば、勉強嫌いでのんびりしていた友人が、お金持ちの奥様に収まって今じゃすっかり教育ママになっている例もある。

そうかと思えば、有名大学で華やかな学生生活を送り、一体これからどれだけ活躍するのかと楽しみだった友人の人生が、どこで間違えたのか結局どうにもならず、目を背けたくなるほど落ちぶれていたりする。


人生なんて最後まで生きてみないと分からないんですよね。
躓いても立ち上がって生き抜く力があるかどうかは本人の資質次第。道を外れず真っ当に生きるかどうかも本人の心がけ次第です。


今から20年前に公開され、私も息子がまだ赤ちゃんの頃に観て、ひどく感銘を受けた映画があります。

 


失明を避けるには高額の費用がかかる手術が必要な息子の為に身を粉にして働き、裏切られ、あげく罪に陥れられても、「息子の目」と「自分の名誉」を引き換えにし命を差し出す母親の物語です。
映画館で滂沱の涙を流しながら、私も息子のためにならこの母親のように死ぬ覚悟があると共感したものでした。

この作品より前に同じ監督が撮った「奇跡の海」という、夫への愛と献身の末に命を落とす純粋な妻の話は観ている最中から苛立ちとむかつきが抑えられず、映画に誘ってくれた相手に「なにこのクソ映画?!夫のために女が自己犠牲だなんてひっどい話!全然神聖じゃない。ただただムカつくわ!」と罵倒しながら帰ったのでしたが、「夫のための自己犠牲」は1mmも受け入れる余地がなかった私も、「息子のための自己犠牲」の話には感動して涙したのです。


ですが、私にはもう自らの命を賭して守らねばならぬ小さな息子は居なくなりました。もちろんまだこれからも、大学、大学院とお金は払わなくちゃいけないし、私がこうしてせっせと働いているのも息子に仕送りするためなのだけれど、「何があろうと取り敢えず子供達が大きくなるまでは死ねない」という義務からは解放されていい頃です。
息子は既に家は出ており、こうして成人もし、母親が居なくても生きていけます。まだ娘にはもう少し手がかかりますが、反抗期も始まったことだし、そろそろ距離を置いてあげなければいけません。

西原理恵子さんの本にもあったけれど、子供はもう後ろ姿しか見えなくなりました。


毎日かあさん14 卒母編
西原 理恵子
毎日新聞出版
2017-09-21


卒母のススメ
西原 理恵子
毎日新聞出版
2017-11-10



さしあたって私には今読みたくてたまらない本が山ほどあり、読んでも読んでも「あれもこれも」ともっと読みたくなるので、私に読まれるのを待っている本たちが常時20冊は本棚に並んでいます。

もっと本を読んで、自分の中に「世界を表現できる言葉」の数を増やさないと、和華子さんの話は書けそうもありません。
題材は和華子さんだけじゃない。寄稿もするようになり、最初は正直「短編の読み物なんて何を書けばいいんだろう。私に何が書けるんだろう」と戸惑っていましたが、書き始めてみると「あぁ、私には書きたかった話が結構あったんだな」と気がつきました。


読みたい本を全部読むまで、書きたい話を自分の思うさま書けるようになるまでは死ねません。
そうこうしているうち私たち夫婦の互いの親がいよいよ弱るので、次は「親を見送るまでは死ねない」となるのでしょうね。