◆砂を噛む


うぅ〜ん、目が痒いです。。。(ノ◇≦。) 
花粉の季節ですね。
私はかれこれ1年以上舌下免疫療法で花粉症の治療をしており、おかげで症状は軽くなっている実感はありますが、今年もアルガード(目の洗浄液)とハナノア(鼻の洗浄液)が手放せそうもありません。
ヨーグルトも毎日食べてます。

2月は本来1年の中で最も寒さが厳しいはずなのに、どういうわけだか今年は花粉が大乱舞するほど暖かくて連日いいお天気なので、4月中旬くらいの陽気です。

春は菜の花畑が目に眩しくて、桜並木の花に酔って、気持ちが浮き足立って昼も夜もお出かけしたい季節のはずなのですが、30歳を過ぎた頃に花粉症を患ってからというもの、春は冬以上に外出できません。
花粉のシーズンが終わるまでは外の明るい日差しが疎ましくさえあります。


私はもともとシーズンに関わらず家でネットを見ているの好きなのですが、最近は以前ほど熱心に子宮系やキラキラ起業のウォッチングはしておらず、スマホを眺めているのは相変わらずでも、SNSを見ているよりKindleで本を読んだり、dマガジンで雑誌を読んだり、新聞を読んだりしている時間の方が長くなってきました。

一時期は夢中になって子宮系教祖たちの動向を追いかけていたのですけどね。
「飽きた」と言うよりは、子宮系というコンテンツが「目に見えてつまらなくなった」ことが主な要因です。


子宮委員長はる改め子宮委員長八木さやは、「壱岐島に移住したら引退する」との宣言を翻して活動を続けていますが、よほど暇と孤独を持て余しているのか怒涛の勢いで書いているブログにもかつての勢いはありません。

ブログの内容はいちいち読む気もしないほどマンネリ化し、昔は無かった読者に対する媚が嗅ぎとれます。
「子宮委員長はる」全盛期時代のいいねの数とシェア数を思えば随分少なくなった数字に時の移ろいを見て、私はアンチの立場にいるはずなのに何故か淋しささえ感じてしまう。



人気者の宿命は、いつか必ず人気を失うことなのだ



ということが、スピリチュアル教祖やブロガー界隈を見ていると嫌でも分かってしまうから。


人は弱い。弱いからいつの時代にもおかしなカルトが流行っている。そして流行っては廃れていく。
一気に狂い咲いて、満開になったと思った途端に散り急ぐ様はまるで桜みたいですね。

新しいカルトが誕生し、ものすごい勢いで信者が増え続けていくかと思いきや、ふいに頭打ちとなり、やがて減り始めていく。
衰退は多くの信者に夢を見せ続けることができなかった教祖の実力不足もあるし、限られた市場の中で後から出てきた教祖との競争に破れ、勢力が衰えるという理由もあるでしょう。
けれど一番の理由は、人は歳をとり、時代は移り変わり、「一つの時代を担った人気者」はそうであるがゆえに時代遅れになってしまうからです。

一時代を築いた教祖たちから発せられる匂いが「古臭い」と感じられるようになる。


芸能の世界では人気が再燃して再ブレイクを果たすという例もあるけれど、カルト宗教や情弱ビジネスでそんな話は聞いたことがありません。
カルトの教祖は原則として使い捨てなのです。

弱い人たちにとって唯一無二の教祖なんて存在しません。「こっちがダメならあっち」と、お気に入りの教祖を乗り換えていくだけ。
まるでドラッグストアに並んでいる安い化粧品みたい。中身はほとんど同じで、安っぽいパッケージと説明書きがちょっとずつ違うだけのドラッグストアコスメ。カルト消費者がどの教祖を手に取るかはその時の気分次第です。


人は誰しも弱いのだけど、自分の弱さを受け入れた時に強くなり、現実を生きていけるようになります。
けれど強くなるよりも弱いままでいる方が楽だから、現実に目を背け、ずっと夢の中に生き続けることを選ぶ人も居るのだと、ここ数年ネットウォッチングを続けてみて知りました。そう、私の友人のように。


私は友人に、「目を覚ませ!」なんて働きかける気はもはや微塵もありませんし、「目覚めてほしい」と思ってもいません。
夢の中に生きることでしか生きられない人だったのだと、今は分かるからです。


彼女が現実を見ることは無いでしょう。

子宮系の理屈が多くの医療関係者によって否定されても、Happyが縄文祭で大顰蹙を買っても、彼女は今でも「はるちゃんとHappyちゃんが大好き」と言います。
けれどはるちゃんHappyちゃんにお金を貢ごうとはしません。なぜなら現実の彼女は仕事が上手くいっておらず収入が少ない上に、なけなしのお金は他の教祖に使っているのだから。

彼女は数年前子宮委員長はるの夫であった岡田哲也と藤本さきこのセミナーに参加し、「設定変更」と「お金」について大金を払って学んだはずでしたが、収入は減る一方のようでした。

岡田氏には引き続き個人コンサルもしてもらっていましたが、趣味で十分な収入を得て、「遊ぶように仕事をする」理想はどうやら実現出来なかったようです。

彼女はスピリチュアル教祖たちを次から次へと渡り歩きながら、一向に願いが叶わず、お金は増えるどころか減る一方でも、自分が信じたのが詐欺師で教義は全くのデタラメだったとは絶対に認めません。

素敵なパートナーは現れず、欲しがっていた子供も産めないままに歳をとり、低収入ゆえアラフィフになってまだ親から自立できなくても、「私は幸せ」だと言い聞かせ、自分が今どんなに幸せかをアピールすることに必死です。


私は少し悲しくなるけれど、ツッコミを入れようとは思わない。友達だから。
少なくとも友達だったから。

彼女は今新しい教祖に入れあげて、セミナーで手法を学んでサロンを開業し、上手くいっているアピールをしていたけれど本当は才能がなくて行き詰まっていた仕事を辞め、今後はサロンオーナーとしてヒーリングを本業にするそうです。

サロンは軌道に乗って欲しいと思ってます。大成功はしなくても、せめて自分一人がどうにか食べていくのに困らないくらいの仕事になればいいなと心から思ってる。

これがネットで見かけるだけのスピ系起業家なら、意地悪い気持ちで早晩サロンが立ち行かなくなる様を期待して愉快に眺めたでしょう。
しかしリアルで知人であるなら躊躇するし、ましてや親しかった相手ともなると情がある。

彼女がスピ界隈で大きな影響力を持たず、ネットで大きな発信力も持たず、他人の人生を狂わせることなく仲間内で細々と小さな商売をして暮らすということであれば、社会にも害があると思えません。

「本人が幸せならばそれでよし。分かり合えないし話すことはもうないけれど、元気でいて欲しい」と思うのです。


ただ、彼女の見ている夢を否定するつもりはなくても、いくら友人とはいえその考え方は許せないと怒りが湧くことがあります。

それは、スピリチュアルを科学的根拠を持って否定する有識者の方を「分かっていない人」「自分とは次元が違う人」(自分は科学では捉えきれない不思議な現象を体感したり見聞きする能力の保持者だという前提がある)だとし、私のような子宮系ビジネスのカラクリを暴き警鐘を鳴らす為に発信する者たちを「アンチ」と決めつけバカにしたような態度をとることです。


「エゴサーチしたら私のアンチが大量にいるかもしれないけど」


私は、現時点の友人にアンチがいるとは思えません。
今後アンチが湧くほどの大物になったら、むしろ嬉しい。
今までチャレンジしてきた仕事や活動では、業界で名が通るほどの成果をあげられなかったのです。そんな彼女が遂に小さな成功でも収めることができるなら、例えそれがスピ業界でも友としては「よかったね。やったじゃない」と思ってしまう。

けれど、アンチが湧くには条件がある。
それは、提唱する夢物語にオリジナリティーがあるということです。
自分が新しいお話を作りださなくては、スピ業界で大きく名を上げることはできません。
他人のセミナーに通って、他人の考えた教えに乗っかっているだけでは小者過ぎて、アンチもつかないのが現実なのです。


「私は自分のことに夢中で、忙しくて充実しているから、批判を読む時間もアンチを見つける時間もありません。
永遠に好きなだけ、影でやっていればいい。それであなたが幸せなら、ね」


およそ常識のある大人で、このようなセリフにイラっと来ない方はいないでしょう。私も苛立ちました。
スピリチュアルの夢にしか生きられない人は、その中でひっそり生きていけばいいですよ。けれど、


夢の中に生きる者たちの生活を支えているのは現実を生きている人たち


なのだということを忘れてもらっては困ります。


世の中に無くてもいい活動を「仕事」と称しているスピリチュアルドリーマーが日々口に入れる食べ物や、使用する生活必需品、利用するサービス、それらの生産者や提供者として働いている人たちは、現実に足をつけて生きています。

現実を生きて、生きていくためのお金を稼ぎ、未来に向けて子供を育て、そうやって社会を支えているのですよ。


ほとんど稼ぎの無いドリーマーが、「私は好きな活動をしている」のは誰のおかげ?


しっかり現実を生きてる親やパートナーが居るからでしょう?


自分以外の家族親族が生活の基盤を作ってくれているから、ご飯も食べられるし布団で寝られるのだという事実を無視して、彼女たちはまるで自分が一段高い場所に居るかのように振る舞い、尊大な態度をとる。
そうした態度には他人だろうと友人だろうと関係なく張り倒したくなります。


ドリーマーがアンチと呼ぶ私たちが、どうして批判のために声を上げるのか。

弱い人ほど夢の中に生きる方が幸せなのは分かっています。現実なんて見たくない気持ちだってすごく分かるんですよ。
けどね、



世の中は現実を見ている人だけが生き残るように出来ている



のを知ってるから、「現実を見て」と言いたくなるのです。

困難な状況下で、


「さあ、目を閉じて。祈りましょう。想像するのです、あなたが満ち足りて生きていける豊かな世界を。想像すればあなたの願った現実が引き寄せられます」


なんてやってたら、状況はひどくなっていく一方なのに身動きできないまま死ぬことになりますよ。
目を開けるのが辛くても、しっかり目を開いて現実をありのままに見て、自分の置かれた状況を判断し、どの道なら自分の足でも歩いていけそうなのかを選び、嫌でも前に進んだ人だけが出口まで辿りつけるのです。

夢の中に出口の扉は無いの。


ドリーマーたちは本当はお腹が空いているのに、綿菓子ばかりを食べたがりますよね。
甘くて軽くてフワフワしてる。
でもね、本人たちは綿菓子と思っているけど、口の中に残るジャリっとしたものは砂糖じゃないから、それ砂だから。

目を覚ました人だけが、砂だと気づいて吐き出すことが出来るのですよ。
砂を吐き出した人たちは、砂糖だと思っていたものが砂だったことに驚いて、そんなものを自分が口に入れていたことが怖くなって、まだ砂を頬張っている人たちが心配になって、だから「それ、砂だよ!砂!砂なの!ちゃんと見て!早く吐いて!」と叫ぶのです。

どうして、それをアンチとバカにできるの?


私はもう、友人に語りかける言葉を持ちません。本人が幸せそうで、元気で暮らしているならそれでいいのです。

ただ、私の友は砂を食べている。それを見て、私は砂を嚙むような気持ちになる。