◆夏が終わりゆく

こんにちは。今日は久しぶりに少しのんびりできるので、ブログを書く余裕ができました。

先々週は家族旅行、先週はよさこい祭り、今週は帰省中の親族と食事会など、忙しくしているうちにあっという間に8月前半が過ぎ去ってしまいましたよ。
今日は終戦記念日ですね。


日中は暑さが続いているものの朝夕晩は涼しい風が吹き始め、幾分過ごしやすくなったように思います。
高知県では毎年よさこいが終わると、一気に夏の終わる気配がそこかしこに漂い始めます。

毎年のことなのですが、街中に轟いていたよさこいの爆音と充満していた熱気が後夜祭の終了と共に突然消え去ると、静けさと寂寥感がとって代わり物悲しい気持ちになります。
高知の夏はよさこい前とよさこい後の空気感の落差が激しいんですよね。


少し前まで道端に落ちているのはセミの抜け殻だったのに、よさこいが終わる頃には短い生涯を全うしたセミが落ち始めるのも終わりゆく夏の暗示。
若い頃には秋の初めが一年で最も寂しい季節だと感じていたのですが、ここ数年は夏の終わりが寂しいです。高知の夏があまりに青く暑いせいかもしれません。


今年の夏は思い出深い夏になりました。
家族旅行は最果ての海へ出かけたのですが、来年の春に巣立ちする予定の息子を含めての旅行はこれが最後になるのかな。
男の子は巣立ってしまったら、盆暮れ正月も顔を見せに帰って来るか来ないか分かりゃしませんからね。たとえ滅多に帰らなかったとしても、無事に親元から羽ばたいたことを喜ばないといけないですよね。


娘は仲良しのお友達に誘われて、しぶしぶ参加のよさこい祭り。
めんどくさがりながらイヤイヤ練習をしていましたが、いざお祭りが始まってみたらすぐに踊り子の名誉であるメダル(個人賞)をもらって自信がついて、最後まで楽しく笑顔で踊っていたら踊り子にとって憧れである追手筋本部競演場の花メダルまでもらえて大満足の様子でした。


本祭の二日間を踊りきって終わりの予定が、思いがけずチームが賞をとったため3日目の後夜祭まで参加したのですが、お祭りが始まる前には「2日間踊るだけで疲れるから、もしも受賞しても全国大会と後夜祭は参加しない」と言っていたのに、自信がついて楽しくなったら気持ちが変わって出たくなった模様。
お友達みんなと3日目も最後まで楽しく踊りきりました。


私はお祭りが始まるまでは参加したくないなら断ればいいのにと思っていたし、毎日塾の夏期講習を途中で抜けてよさこいの練習へ行かせ、塾で受けられなかった授業の範囲は勉強に遅れが出ないように家庭学習させていたので、私にとっても手間が増えて面倒に感じていたのです。

あまり体力がない娘は忙しさに疲れて2回ほど熱を出してしまったりと、よさこいの練習期間中は何かと大変だったけど、終わってみればとても充実した体験でありいい夏の思い出になったので、参加させて本当によかったなと思っています。


子育てって難しいですね。
私は本人にやる気や能力、適性のないことはやらせても無駄と思って強制しないタイプの母親なのですが、このように初めは嫌がっていても途中からやり甲斐を見つけたり、評価されて自信がついたりして、子供本人が変わっていくこともある。


私は一応母親歴18年にもなるのだけど、子供にとって何がいいのかなんて未だにさっぱり分からないし、いつまでたっても親としての自信なんかつきません。


18年「お母さん」してみて分かったことは、「正しい子育て」なんかないのだということくらい。

それと、どんな親であろうともその時にできる精一杯の、できる限りのことをして自分なりに一生懸命子育てしているのだということです。
たとえそのお父さんなりお母さんなりが子供に対して「親として十分なことをできていない」と周りの目には映る状態であっても、足りないのは親の努力や愛情ではなく周囲のサポートなのだということが、上の子が巣立ちしようという頃になってようやく分かりました。


「こう育てればいい子に育つ」「あの天才児の親の子育て方法」など、子育てのハウツーは世の中に溢れていて、私も子育ての参考にといろんな本を読んでいたこともあったけれど、結局そんなものは全然参考になりません。

たまたまその親の子育て方法や方針がその子供に合っていたという幸運な組み合わせが、他の親子にも当てはまるわけじゃないし、そもそも「いい子」って何なのでしょう?


「うちは親子がいつまでも仲良くて反抗期もありませんでした」


なんて自慢するお母さんがいますが、子供に反抗期がないのは本当にいいことなのでしょうか。
息子が通う高校の担任の先生は、

「反抗期は中学高校の然るべき時に来たほうがいいんです。近頃は新型うつなど大人になってから仕事に行けなくなる人が居ますが、僕はあれって思春期に親に反抗できなかった人たちの遅くやってきた反抗期なんじゃないかと思うんですよ」

とおっしゃっていて、なるほどと思いました。



確かに私の幼馴染や同級生達の中でも、中学時代に地元じゃ有名な不良になってしまった男の子が、今では誰よりも真面目に仕事をして家庭的なお父さんになっていたり、高校時代にグレていつも親を泣かせていた子が今では素敵な大人の男性になり親孝行にも励んでいて、その変身ぶりに驚かされるなんてことがあります。

一方では、かつては親にとって鼻高々の「自慢の息子」や「自慢の娘」だったはずなのに、いつのまにか親子の情も薄く絶縁状態になっていたり、親も扱いに困るどうしようもない中年になっていたりする悲しい例もあるんですよね。


だから、「いい子」って何なのかも「いい子育て」って何なのかも分からない。

少なくとも私はそう思っているので、自信満々に自分の子育て方法を語る「子育て自慢」をする人を、私は信用できません。

子供を自慢する人は好きです。親はみんな親バカで当たり前だし、謙遜して我が子をけなす親よりも、目尻を下げて「うちの子はすごいんですよ〜♡」っていう親の方が素直で微笑ましいです。

だけど、「子育て自慢」は「こんないい子を育てた私ってすごいんです!」「子供じゃなくて私がすごいんです!」という、子供を利用した自分アピールの自慢 ですよね。そういう人を見ると何だか胸がモヤモヤしてしまうのです。


話は変わりますが、実は今年の夏の旅行中に立ち寄った海辺の町で、私は思いがけない人と再会しました。
若い女の子で、ずいぶん前に仕事をきっかけに知り合った子でした。他人と上手にコミュニケーションが取れず、そのせいか仕事につくことも、ついた仕事を長く続けることも難しい様子で、最後に会った時には無職になっていました。

その後縁がなくなってからの消息は知らなかったので、まさかこんな辺境の地で彼女に会うとは思わず、再開した時には思わず大きな声で「お久しぶり!」と叫んで相手を驚かせてしまいました。


「お久しぶりです。〜〜さんのお店で」
と話しかけた私の言葉を聞き終わらないうちに、


「違います!」


と、私に負けない大声で否定されました。
面食らいましたが、顔も声もどこからどう見ても私の知っている女の子本人です。見間違えようがありません。
とまどいましたが、「彼女は誰にも見つかりたくなかったのだ」ということはやがて分かってきました。

とっさに考えついたのは、「家族から逃げてこんなところまできたのかもしれない」ということです。彼女が過干渉の母親との関係に悩んでいたらしいことを人づてに聞いたことがありましたから。
一度だけ彼女の母親と会ったことがありますが、私にはきちんとした、ごく普通に子供思いの、感じのいいお母さんに見えて、一体何が問題なのかはその場では分かりかねました。


私が海の広がる町で会った女の子はある意味でまったくの別人でした。
かつて私が知っていた女の子は無口で、他人と目を合わせることができず、いつもおどおどして、精神年齢も幼く感じましたが外見も年齢よりずっと子供っぽく見えました。
これでは仕事どころか日常生活すらままならないのではと、彼女を見るたび不安に思わずにいられなかったのを覚えています。

けれど私の目をしっかり見て「違います!」と叫んだ女の子は、キビキビとした動作で立ち回り、大きな声でハキハキと商品の説明をし、時には笑顔も見せて客さばきをする「ちゃんと仕事のできる大人の女性」でした。


知り合いとは誰とも会わないはずの町まで逃げて、母親の手の届かない場所で彼女は自分を取り戻したのかもしれないと、私は彼女の物語に想いを馳せました。それは私の勝手な想像に過ぎないことで、実際には全く違う事情があるのかもしれないけれど。


立ち去り際に、

「おどろかせてごめんなさいね。他人の空似だったみたいだから、どうぞお気になさらないでくださいね」

と声をかけ、

「そんな、とんでもないです」

と、笑顔で返してくれた彼女に頭を下げながら、そっと名札を確認したら、そこにはやはり私の知っている女の子の名前が書いてありました。


「よかったね。あなたが見違えるようになっていて嬉しいわ。がんばってね」


と、私は青い海に思い、海辺の街を後にしました。若い彼女のこれからの人生が、水面のように輝きますように。

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