■情報と教養

たかはし あやさんのセミナー開催が決まって、今日は昨日より更に何か気の効いたことを書いて集客に努めようと思っていたのに、気づけば朝から全く筆が進まない。

家事をし、SNSを眺めながら時間が過ぎてしまった。
今日はもう無理かもしれない。

気の効いたことを書くにはインプットが足りないような気がする。
本屋に行かなければ。
新鮮な血(字)が足りないのだ。
こんな気分の日に新鮮な字をすぐに点滴出来るのはリアル書店であり、ネットの密林ではないのだ。
栄養価の高い字は教養を含んでいる。
それは血となり肉となる。


ネット上に溢れる字は教養ではない。情報である。
noteの有料コンテンツを幾ら読んでも教養は身に付かない。 


私は自分の学生時代にインターネットが無くてつくづく良かったと思う。
私は弱く、流されやすかったので、環境にすぐ染まる。私が本を読むようになったのは、東京の大学で当たり前のように教養深い同級生たちに囲まれ、会話の中に入っていけず、無知無教養だった私の言動は全く的外れで、いつも恥をかいていたからだ。
それまで熱心に本を読む習慣は無かったのに、環境が私をそうさせたのだった。


私は学生時代に沢山の本を読んだ。沢山の映画を見た。
できる限り美術館やギャラリーやアートのイベントにも足を運んだ。
色んな大人の話を聞いた。ついでにご飯も食べさせてもらった。


あの当時情報と言えば自分の足で稼ぐしかなかった時代だけれど、今にして思えば、私は情報収集ではなく教養収集に励んでいたのだ。

情報はすぐに役に立つものだけれど、すぐに役に立たなくなるものでもある。
教養はすぐには役に立たないけれど、 教養によって養われるのは思考する力である。


なんてことを考えながら掃除機をかけていたら、「そのうちやろう」と放置していた確定申告の資料が目に入った。

やべぇ。
先日「確定申告始まってるよ。」と急かす夫に「金曜日にはしてくるから。(うるさいな
←心の声)」と言ったのをすっかり忘れていた。

しかし私には新鮮な字が必要なのだ。今日は税務署より書店に行かせて欲しい。
と、やるべきことを後回しにする後ろめたい気持ちに言い訳をしてみる。