■禁酒宣言


「酔い痴れて、ぐっすり眠っていた。目が醒めてみると、一夜にして、恋を失っていた。」


とは、上林 暁(じかんばやし あかつき)の私小説集「禁酒宣言」の一文である。

禁酒宣言 (ちくま文庫)
上林 暁
筑摩書房
1999-09


この一文に私はすっかりヤラレてしまった。

だから古典は良い。近頃のやたらひらがなやカタカナが多用されている軟弱な文章と違って、漢字が使われるべきところで使われている。それにより何とも言えない風情が文章から漂うのだ。


今時「酔い痴れる」なんて書く人はまず居ないだろう。「酔いしれる」と、肝心な一文字がひらがなになってしまうはずだ。

しかし、「痴」というたった一文字の漢字が入るだけで、作家がだらしなく酔いつぶれている情景が目に浮かんでくるようではないか。


上林 暁は、ヒドイ男だ。精神を煩った妻の様子や妻不在の日常を綴った「星を撒いた街」を読み、その文章から流れ出る旋律の美しさに感動した私の心を返してくれと言いたい。(「雨垂れの響く夜には」参照)


  

私は大嫌いだ。

弱い自分の心を持て余して酒に身を崩す男が。


上林 暁は妻を亡くした後、襤褸(ぼろ)を着てお金はことごとく酒に散財し、家族に不自由をさせるばかりか、その飲み代すらも方々の店の女将に甘えてツケで飲んではあちこちの女将に懸想(けそう)し、愛想を着かされては振られる生活を送る。

金払いの悪い男も、私は蛇蝎(だかつ)のごとく嫌いである。

非人情でそう言うのではない。酒を飲み過ぎる文無しにかつて苦労したことがあるせいで、とことん嫌いになったのだ。


しかし、この上林暁と言う作家は憎めないのである。 

「酔い痴れて」などと書かれては、どうにも憎みきれないのである。


「だらしない話である。恥ずかしい話である。私は酒がやめられないのである。殊勝げに『禁酒宣言』という作品を発表してから半歳、いつまで続く泥濘ぞ、大酒、深酒、ハシゴ、宿酔の連続である。」


などと厚かましく書き綴る男の文章に、私は惹かれてやまないのだ。


自分と周囲の人々の日常生活を恥部と共にさらして世間に発表する私小説家は、現代で言うところのブロガーと同じ人種だろう。

今の時代に私小説家などという職業は最早無いと言っていい。文芸雑誌に発表される私小説が絶滅した代わりに、「個人の日記」というジャンルで自分の生活や家族の恥部、心の暗部などを洗いざらい吐露するブロガーが日本中に湧いている。


筆の甘い者が書く生活の不満は、ただの愚痴である。

しかし筆の達つ者が綴る生活のやるせなさは、行間から寂寥(せきりょう)が滲みでて読者の心を甘美なわびさしさで染めてゆく。

個人の私生活を切り売りするブロガーは、どうせ自分をさらすのであればこのくらいの筆力を持って欲しいと思わずにはいられない。

筆力で読者を圧倒することで己の弱さを文学に昇華してしまう、この時代の私小説家には感服する。

あぁ、ヒドイ男だ。サイテーだと思いながらも、私は上林暁の酔態に引き込まれて、本を繰る指を休めることが出来ないのだった。



今宵の丸く大きな月を眺めながら、私はふと学生時代に読んだ武者小路実篤の詩を思い出す。


追い出せども 追い出せども

なお帰り来る 帰り来る

まるで飼い犬のごとき

わが胸の内の孤独は



私も今夜は本を片手にもう少し飲もう。

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