■「あしたから出版社」に泣ける程感動しました

今年の秋に黒潮町民大学で又吉直樹さんと上林暁について対談していた、夏葉社代表(代表と言っても一人きりの出版社だけど)である島田潤一郎さんの本を、金高堂でみつけて買いました。

それを少しずつ読み進めて、今日やっと読み終えました。
一気に読みたくなる程引き込まれる本ではなかったけれど、すぐに読み終えてしまうのが惜しいと思える本でした。

外出時の隙間時間に読む為にいつも鞄に入れて持ち歩いていたので、本の角は削れて丸くなってしまいました。
見た目が傷んでしまってはブックオフに高く売れそうにありません。

でも、いいのです。この本は何処にも売られること無く生涯私の本棚にあるでしょう。






金高堂は高知市帯屋町にある、高知で最も権威のある老舗の書店です。 

古くなっていた本店にはもう滅多に足を向けることはありませんでしたが、場所を移しリニューアルされ、すっかり新しく綺麗になってからは煮詰まると息抜きに行きます。 


高知では最も権威があるとはいっても、どんな本でもある訳ではありません。 

私が読みたいと思う本はむしろ無いことの方が多く、それらは結局Amazonで注文することになるのですが、金高堂には「何でこんな本仕入れたんだろう。売れそうにないのに。」と思う本を、お店中央の平台の島に探しに行くのです。 

そして、 

「むむむ。この本は私が買ってあげないと返品ではないか?」 

と思うような本をみつけてはそこに書店員の矜持を感じ、そうした誰も買いそうにないマイナーな本をお店の中央ディスプレイの中に紛れ込ませてある辺りに書店員の狂気を感じ、その心に感じ入ってつい買ってしまうのです。 


島田潤一郎さんの本は中央にあった訳ではありませんでしたが、又吉直樹さんの著書と又吉さん推薦本のコーナーに平積みにされていました。 


又吉直樹さんとの対談は聞きに行きましたが、どうやらお話の上手な人ではないらしく、抑揚の無い話し方とまとまりの付かない話に私は退屈してしまいました。 

けれど、話下手な人がいざ筆をとると雄弁であることは珍しくありません。 

「あしたから出版社」も、いくら帯に「又吉直樹推薦!」と書いてあろうが大して売れそうにない本だと思ったので手に取ったのでしたが、そこに綴られていた本への愛と町の本屋への想いに、私は涙がにじむ程心動かされたのでした。 


特に私の胸を打ったのは、以下の文章です。(本書P130〜131より抜粋) 


2010年の5月、「レンブラントの帽子」を刊行して間もなかったこの時に、日本でも、iPadがリリースされようとしていた。このアップル社のタブレッド型PCの到来をもって、いよいよ電子書籍の時代がはじまるのだ(つまり、紙媒体は消え去っていくのだ)、とすくなくない人たちがいっていて、ぼくには、それがどうしても腑に落ちないのであった。 

ぼくは、本が好きで、本に何度が救われてきて、それが、「便利で」、「早くて」、「邪魔にならない」という言葉とともに、過去のものにされようとしている。 

便利で早くて、邪魔にならないのはいいけれど、本の、文学の一番の魅力は、その対極にあるのであって、本をいそいで手に入れて、急いで読まなければいけなくて、ましてや生活のなかにおいておきたくないのであれば、そもそも、本なんて必要ないのだ。 
 

その通りです。 

私もiPadが世に登場した時には書店員としては戦慄し、読書家としては興奮しました。 
Kindle版の書籍は便利だと思います。読みたいと思う本がすぐに読めるのですから。買い物に行く手間もなく、近所に大きな書店が無くてもいくらでも本を買って読むことが出来るなんて画期的です。 
品揃えのいい書店が無い田舎暮らしでは特に重宝します。 

けれど、Kindleで読む本には、知識は入ってくるけれど、心の震えを感じられないのです。 

それは本を読むという行為への感動でしょうか。 

また、 

「子どもがぶらっと入って、ぶらっと出られる店って、コンビニと本屋しかないんだよね。」

もその通りだと思います。 

この一文を読んだとき、私の心は5年前へと遡り(さかのぼり)ました。 


私が書店員をしていたのは町の本屋さんでした。 
   
レジでは遊戯王デュエルモンスターズのカードが売られていました。 
毎日夕方4時を回ると中学生の男の子達がやってきては、30分から1時間もレジ周りを占拠してわいわいお喋りしながらカードのパックを選んでいたのです。 

カードのふちをパッケージの上から擦ってレアカードを引き当てる行為をサーチと言うのですが、一応店でも禁止はしていました。
でも店長がうるさく言わなかったので、スタッフによってはそうした中学生を追い返していましたが、私は黙って彼らのしたいようにさせていました。 


中学生の男の子達がみんな可愛かったからです。 
私の息子ももう少し大きくなればこんな風になるのだと思うと、私には微笑ましく思えました。 


私とレジを囲んで1時間近くもたむろする男の子達は、時に大人のお客さんから「邪魔だ。」と怒られていたけれど、そういう時には礼儀正しく謝っていました。 

グループの中にレアカードの引当率が異常に高い双子が居ました。 
彼らがレアカードが入っているパックを次々に引き当ててしまうので、残ったパックには凡カードしか入っていない。これでは商売上がったりなので双子を出入り禁止にしようかと思うほどでした。 

けれど、あるとき分かったのです。その双子も他の男の子達も、ここへはカードを買いに来ている訳ではないということが。 
   
だいたい男の子達はグループで来たけれど、1人か2人でふらりと来る時もありました。 

あるとき、ふらりと一人でやって来た男の子に、 

「そうやってカードを擦って、どういう風な感触だったらレアカードなの?」 

と聞いてみたのです。そしたら、 

「僕、実は分からないんです。袋の上からカードを擦ってどれがレアカードなのか全然分からないし、どうしたら分かるのかも知らないんだけど、何となく他の子達の真似をしてるだけ。カッコつけてレアカードを選んでるフリをしているだけなんです。」 

と意外な答えが返って来ました。 

彼はその日もやっぱりレジと私の横でしばらくカードのパックを擦りながら時間をつぶした後に、幾つかを選んで買って帰りました。 


翌日も彼は例の双子とやって来ました。 

その日双子のうちの片割れは、「この店もうレアカード買い尽くしちゃった。」と言って帰って行ったのですが、もう片方とカッコつけの男の子は残りました。 

「もうレアカードは無いよなぁ。」 
と言いつつも、やはりカードを擦りながら長い時間居座り、レアカードが入っていないと分かっているパックを幾つか買いました。 

私はその様子を黙って見ながら「出禁にするのはやめてあげよう。」と思いました。 

その子達はレアカードが目当てな訳でも、そもそもカードを買うことが目的な訳でもないと分かったからです。 

ただ彼らは本屋へ来たいだけ。ここに居たいだけなのだと思いました。 

私はお母さんのように、「今日は部活は無いの?」や「明日は試験なんでしょう?早く帰りなさい。」「こんな時間まで何してるの?帰って勉強しなさい。」とか、彼らに声をかけていました。 

高知へ帰ることが決まり、お店を辞める時には 

「ごめんね。私このお店辞めちゃうんだ。」 

と報告しました。 

あの頃15歳だった彼らは、来月成人式のはずです。