■ケイコ

帰れない女達part 3の続きです。

ケイコさんはJALの同僚でした。
私もケイコさんも派遣社員として現地雇用されていましたが、派遣元の会社は違いました。

ケイコさんの派遣元から来る日本人スタッフはケイコさんを除いて全員が既婚者で、英国人もしくはEU加盟国民の夫が居ました。
イギリスではイギリス人かEU加盟国民と結婚していればイギリス人と同等の扱いを受けられ、労働許可証が無くても働くことが出来たのです。

ですから、中にはイタリア人と偽装結婚している女性まで居ました。
イギリスでも偽装結婚は犯罪ですけどね…。


ケイコさんは38歳で、派遣スタッフの中では一番の年上。
独身でしたが、羨ましいことに永住権を持っていました。
彼女が渡英して来た若い頃には、まだ日本人が永住権を取得するのは難しくなかったのだそうです。


彼女は日本で旅行会社に就職しロンドン支社に派遣されてきたのでしたが、ロンドンで暮らすうち日本には帰りたくなくなって、ロンドンに留まる為に永住権を取って会社を辞め、その後は細々と派遣社員として転職を繰り返しながら生活していました。

日本企業の正社員として仕事をしている方がどう考えても待遇もお給料もいいのですが、キャリアを諦めてでも日本には帰国したくなかったのですね。


JALの女性職員は、正社員は40代や50代のイギリス人スタッフも居ましたが、日本人の派遣スタッフはケイコさんを除いてまだ真剣に結婚を考える必要が無い若い女か人妻でした。

そんな中でケイコさんは少なからず居心地が悪そうに見え、誰とも親しくしていませんでしたが、私のことは時々お茶や食事に誘ってくれました。自宅へお邪魔したことも何度かあります。


ケイコさんは比較的上品な地域でワンルームのアパートを借り一人で生活していましたが、その生活は慎ましいものでした。

長くつき合っている年上の彼氏は日本人で、妻子があるということでした。
そうだろうなと思いました。

不倫の道義的問題はさておき、現実的な問題として38歳の未婚女性とつき合ってくれる、あるいはその年頃の女性に対する包容力のある独身男性はほとんど居ないのではないでしょうか。

特に日本が最も豊かな時代によい思いをして来た誇り高い世代の38歳未婚女性を物心共に満足させる男性は、既婚者だと聞かされる方が違和感がありません。


私はケイコさんからお茶や食事に誘われれば断りませんでしたが、彼女と過ごす時間は気疲れしました。

彼女を見ているとどこにも行けないような閉塞感を感じてしまったからです。


JALの現地雇用の社員や派遣社員は高卒や専門学校卒等など学歴が低い人が多い中で、彼女は日本で4年生大学を出ており、日本企業に正社員として長く勤めた賢い女性でした。

それなのに身分が不安定な派遣労働で単純業務(彼女の仕事はチェックインカウンターのスタッフ。今はチェックインは機械やネットで済ませるのが一般的ですが、20年前はスタッフが手作業でしていたのです。)に従事し、アパートでつましい生活をしている様子を見るにつけ、私は苦しい気持ちになりました。


けれど、ある日彼女が興奮した様子で「私の人生が変わるかもしれない!」と、お腹に命を宿したことを打ち明けてくれました。
不倫相手の子ではないとのこと。


彼女は長年あるフランス人ピアニストの追っかけをやっていて、先日もパリまで彼のコンサートを見に出かけ、その日の夜何がどうなったのか憧れの彼と夢のような展開になり、一線を越えて親しくなれたのだそうです。

「私もトシだし、まさか一回のことで子供が出来るだなんて思いもよらなかったけど、産むわ。
彼は独身主義者みたいだけど子供は好きだと思う。自分の子供が出来たと知れば喜んでくれるはずだから、結婚してくれると思うの。来週の休みに彼と会って話してくる。」

と、語るその目は明るい未来を夢見て輝いており、私は「よかったですね。いってらっしゃい。」としか言えませんでした。

日本のようにデキ婚と言う文化風習の無いフランス人のハンサムなピアニストが、ほんのデキゴコロを起こしただけの一夜の責任を取るとは思えなかったけれど。


彼女がフランスから帰って来た翌日、職場のロッカールームで、
「どうでした?彼とはちゃんと話せたんですか?」
と話しかけたとき、

「え?何のこと?」

と冷たく返事をされて戸惑った私は若かった。

今であれば、話しかけなくても彼女の表情からどういう成り行きになったのか推し量るだけの心得があるというのに。


成り行きが分からないままその話題に触れることは避けましたが、やがて彼女はふっくらとし始め、ぺたんこの靴を履くようになり、お腹のふくらみが目立ち始めると妊娠を周囲に告げ退職しました。

彼女は永住権を持っていたので、イギリス人と同様シングルマザーに対する医療や生活費の手厚い援助が受けられたはずです。


退職後一度カフェで待ち合わせましたが、大きなお腹を抱えた彼女は幸せそうで、私は彼女の為に嬉しかったです。

彼女は異国の地で孤独でした。スケジュールを隙間なく埋めることで孤独な心を埋めていました。

仕事が無い日は習い事、ボランティア活動、友人との会食、レジャーにいそしみ、一瞬たりとも時間を持て余そうとはしませんでした。
充実した人生を送ろうと無理に努めているように、私には見えてしまいました。

けれども、一生孤独かと思われた彼女に家族が出来るのです。
彼女はもう独りではありません。慈しむ存在が出来たのですから。

長年おっかけをするほど好きだった人の子供は、きっと色白で目鼻立ちの整った可愛いハーフの子供だろうと想像がつきました。

彼女の子供は、健やかであれば今ごろは17歳か18歳のはずです。